この故事は高校の教科書に載るほど有名ですが、軍規に照らし合わせると死罪にせざるをえないのでひいきにしている。
馬謖を処刑したのです。
しかし、どうして
馬謖がそんなに必要だったのか?ひいきにしていたのか?
あの
劉備も死ぬ前に「
馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要なことを任せてはならない」と
諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。
だが
馬謖が「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と
諸葛亮に助言した。こうした面を見ていると理論面で優れていたようだ。
もしかして、蜀はこうした官僚が不足していた可能性が高いです。topの
劉備が元々が流れ者の集団のため、武将はたくさんいるが行政を行ったり、内政をする人材は魏や呉に比べると劣る。
それに戦争も大将と一騎討ちして、指揮系統が滅茶苦茶になることが後半になればなるほど少なくなった。そうなるとどれだけ兵糧を管理できるかの戦いになります。
なので、泣いて
馬謖を切ったのは人手不足と後は
孔明がそもそも、
馬謖と似ているタイプの人材で師弟関係に近い関係だった。
だから処刑しないと身内ひいきにしているという不満が出て戦えないというジレンマもあったと思います。
実際に、軍規違反している
魏延は見逃していることから単にそうしたことだとわかります。
ただそれを差し引いても蜀には、行政や理論に強い人材に悩まされていた。
諸葛亮が死んだ後、徐々に国力を下げて、
劉禅があっさり降服したのは、魏と違い蜀は人材難で良くも悪くも
諸葛亮頼りの組織だったことが分かる。人材は大事なのだ!