日本は死んだ

この文は、日本を愛しかつ憎むからできたものである。日本の権力に甘えあることを当たり前で終わる人や日本の権力者を怨んだり、妬んだりする人には書けないものである。これは謎に終わるかもしれないが、日本はこのままだと衰退していく流れと日本は死んでいるという事実に気付けないまま幻想につかり滅びるかもしれないからだ。私としてはこれはこれで面白いが、日本は最早死んでいる。これを自覚しなければいけない。

日の丸の鉢巻を巻いた軍服を着た人は日本は素晴らしい国、これを外部から守らなければいけない。しかし、日本は後進国と言われる国に追いつかれている。外国でできることが最早増え、政治もできることが少なくなり、文化も衰退している

日の丸の鉢巻を巻いた軍服を着た人がこれを見ると、日本は技術があって、治安が良く、モラルが高いと言うと思いますが彼らも日本が死んでいることには気づいていないのです。彼らの言う日本は、戦後すぐには幻想として存在していたのかもしれない。しかし、ネット後進国ブラック企業、キャッチセールスや校内暴力などとても褒められたものではないものも多いです。つまりは、幻想なのです。


日本のマスコミはおかしい、本来は大衆と言われる没個性の人たちの製造機であるはずなのに近代社会で生まれたアルバイトみたいな存在を否定して暗に個人主義を推奨している。派遣、下請け、生活保護批判、宗教批判、規制批判これは個性や個人、グローバルの時代を到来させるものとしいてる。
こうなった時他の人に代替されない人にならないといけない、それが友だったり特定のコミュニティに属することだったり、スキルだったりする。つまり真の意味でオンリーワンの存在になることである。これまで日本人を縛って重みを背負わせていた物、共同体は死んだ。日本の雇用慣習終身雇用、年功序列、成長神話、一億総中流などこれまで支えてきたものはもうないのだ、これからは一人一人不幸や不運、失敗から目を背けず、どんなものにも好奇心を向け自分から能動的に動かなければいけない。


数十年間日本の欠点という本が出ていてベストセラーになっているのにもかかわらず改善されないのは日本自体活力がない、寧ろそれをごまかすかのような本がベストセラーになったりしているような現状だし、犯人捜ししている本も流行している。
今まで、共同体を叩いてきた人や誇りを貶める人のせいか日本人の力は動物並に落ちていった。
個人は、共同体に誇りを感じなくなりプライベートな生活や私利私欲に走った結果として自分の報酬と生活を重視する人が増えました。
共同体とは色々ある。家族、学校だったり、クラスだったり、自分の職業、町、年代、履歴書にかける物から読書カフェみたいなや○○教室とかある。これを馬鹿にされて喜ぶ人はいないだろう。最初は反発するが後から次第に、町は便利なところへ、学校も道具、家族もみんな生き残るための分散投資だとか考え出す。こうなると、虫や動物だ。しかし、反発をやめて生きるというのはそういうことである。国家に溶け込んで生きている少数民族は歴史にたくさんいるし、それらは国家や多数派に服従しつつも生きてきた知恵として無闇に反発しないことがありました。

その結果として共同体を支えている個人が弱まり、共同体の力も弱体化していったのです。学校もどこを選んでも同じ、企業もどうせ上に手柄を取られるだけとか、学校も組体操の問題は実は、やっている側に不満があっただけだったと思うが聞きいられなかった。その閉塞感が漂ってしまっている。共同体が喪失してしまった。優秀な人は逃げてしまうのです。違う共同体でも受け入れられるのでどんどん逃げ出し、似たような人しか残らなくなったというのが閉塞感から来るものである。一部の不満を持ったノイジーマイノリティがうるさいというがことごとく多数決によってマイノリティの意見を無視してきた人たちが逆に仕返しを喰らっているだけなので因果応報である。

民主主義において幸せな人とは、大多数派に属する人である。大多数派は鈍感であるが道徳を振りかざす。例えば、車で事故死している人がいるにもかかわらず一部のニュースで取り上げられた事件に関して過剰反応する。自分の常識と違えば敵対する。黒か白かどちらかしかない。能力が低い他界はそこに関係がない。

みんながすることは、先ず自分の周りの些細なことに喜び、進んで責任を背負うことである。日本とか神とかでかいものは忘れなさい。世界市民とかもです。次におかしなことがあれば否定していってください。周りにはおかしいことを続けていることが良くあります。些細なことでもよい、例えば筋トレは超回復という原理があるのに毎日続けているとか。勉強は徹夜するとか、そうしたことを否定してください。そして行動してください。次に創造共同体を新しく想像してください。これが新しい物になるしイノベーション、活性化となる。

こんなことは引き受けたくないむしろ平等に生きていくことと適度に働き、みんなと同等の娯楽、健康、長寿でいること、価値観を共有することを大多数は望むだろう。これは悪いことではない。寧ろそうなりたいものはそのままにしておけ、ただし万人に教育の機会を与えて狭い世界から抜け高手を差し伸べすことを忘れてはならない。そうしたことを怠ると才能を持つ不満分子が外の力を借りたり、オカルト、昔話、おとぎ話に走り共同体の不満が出てきて共同体崩壊へと強まるのだ。才能を持つものは努めて維持させろ。

何故共同体を重視するのかというと、一人の才能を伸ばしても獣の才能でしかない例えば、全ての英知を知っている人がいるとしても肉体労働ばかりの社会では何もならないし、サッカー選手も一人では何もできはしないのだ。個性(才能)は大事だがそれを拾える共同体を作れなければ滅びるのは必然である。人口が増えた今活用しなければ資源を浪費するだけである。ではどうして凡人をほっとくかというと彼らは彼らで仕事があるからだ、客になることである。これはこれで立派な仕事です。優秀な人だけが世の中いたとしても恐らくつまらないだろう。何故ならばすごいとか、美味しいとか、美しいとか、歌が上手いとか
会社がすごい、リーダシップに優れている、文学の表現が素晴らしいとか言う人が一気にいなくなるからである。客がいない社会ほどさびしい社会は世の中存在しない。誰も自分の作業に集中してできた成果物のみが残るという社会になる。客がいないというのはこういうことである。凡人は凡人のままでいい、無理して個性を発揮しないで本来はいいのだが今の世の中は強制的に世の中に全員、個性を発揮させようとする。またはそうした夢を持つ人を持つメルヘン系を増やす社会へとなっている。全て社会のせいへとするのは良くないが、社会そのものが崩壊しているため気にする必要がない。

どうした人がこれから求められていくか?昨今インターネットの登場によって陰口や人の裏表が昔に比べて調査しやすくなってきた。隣人にぬくぬくと顔色を窺ったり、共同体のタブーの悪しきところを破っていく人間である。しかし、ただ単に破壊していくわけではない、それだといじめになるが、自分が良いと思うことを実行して新しい価値観を内から創造してルールを規定する人たちである。世間の目を気にするとゴッホや歌舞伎みたいなものは残らない。自分がやりたいことを実行しろそれこそが法である。それがお前の内なる意思から出る物であるものならば

そうして人々は新しい共同体を創造していく、創造とは既存の共同体ではエネルギーが飽和してしまうからエネルギーを食いつぶす前に共同体を創造していかないと人の足を引っ張ったり、憎んだり、嫉妬したりするサイクルが流れていくからである。共同体とは人がそこに居場所があり認められている。社会の一員としていると思えれば全てが共同体なのだしかし敢えていえば物語性がある程度必要であろう。

物語とは共同体を作る上ではある程度必要なものである。昔の日本には「いい大学に入って、いい会社に就職する(その後、年功序列年金生活)」という人生のモデルのようなものがあって、それも崩れた今となっては、このモデルを「もはや一種の神話」と言ったりする。原子力発電所の安全性が覆されて「原発安全神話が崩れた」なんて言われたりもする。こうしたことから共同体に不可欠なことはみんなが信じる物語ではないだろうか?良い大学という通過儀礼を通り、就活という通過儀礼をして、良い会社に就職をするここには合理的理由はあまりない。特定の人に憧れを持ち夢を持つことや目標を抱かせることができる。カルトが勧誘を成功しているのはそこにあるし失われた幻想を穴埋めしていることも大きい。夢、目標、成功体験とはかなりの力を持ち活力を与え、共同体の個人の強化につながり良いサイクルに回ります。例えば、ネット企業は儲けることと、自分も起業して社長になること、売り上げが伸びて成功体験を味わって組織の力をあげて個人の力も上げています。前向きなところには前向きなものが集まるのです。

共同体を新しく作るということはリスクがあるが英雄になることである。昔ならば地方の神になるということである。逆に共同体に悪いことをする人や課題は妖怪であり魔王や悪魔である。それらを退治するのが英雄や神の資格であろう。

失敗した人を攻める文化では、共同体ができるどころが亡国へとなるだろう。金儲け、安全に走る人や日々の保証があればよいと思う人だけが暮らす土地となり、日本人が日本人でたりえるのは血であり文化も何もかもなくなってしまうだろう。家制度や武士道、忠誠、天皇制そんなものではないもっと大切なものがこれから先、下の人だけではなく中間層や上流階級も喪失していく。良い社会とはこれから先無くなっていくのだ、これこそが挑戦であり、自由になる方法なのだから。

保証を求めていては何も守ることはできない、例えば、自分が叩かれたとき無関心になったらどんなに金を持とうが無意味なのだ、ただ前の叩く人に服従するしかなくなる。それだけならばよいのだが、保証を与える人にライフライン全て握られることが一番最悪なのだ。こうなると自由は永遠に得られることはない。

しかし、公が派遣切り労働組合ワークシェアリングのようにすることもないのは、公を守ろうとする心がないからだ、個人だけ良ければよいと思い未来に残そうとかすごい価値観を持とうという気持ちが存在しないからだ。理不尽に耐え抜き自己犠牲するのはどこから生まれてくるのか?それは未来や歴史という評価、自己実現、共同体というもののためである。個人の欲だけでは絶対生まれないものである。

欲がないと嘆いている人はどうしてか、欲がある人の方がサラリーマンや労働者としては管理がしやすい。給料を働かなければいけないので管理がしやすいし次々と新製品を出すことができる。しかし、欲があることは果たしてよいことかどうか疑問に思う。欲とは究極なところ自分だけのものである。行きつくところは人を殺してでも手に入れたいという物が欲という物であろう。アメリカの略奪とか見るように欲がいいのか悪いのか微妙であるが、そうしている人は消費してほしいのです。まずい食べものを買い、つまらない本を買い、つまらない車や映画を勝って欲しいのです。欲がないのではなく低品質なものを買わせようとしているだけです。タイ米はチャーハンにして買うのがおいしいし、日本米は味噌汁に合う。動画が充実したり、海外の本や映画も見れるようになったように消費も変化している。車も通信機器の発達が思わない効果をあげているところでしょう。欲がないと嘆いている人は実力不足を嘆いているだけだ安心して無視するがよい、世代間論争や外国についてもその慣習について語るものはともかく、バッシングする人は無視してかまわない。自分の実力不足を棚に上げて自分の人生を生きずに他人を批判する妬みの塊の人が手に取るものであるからだ。書いた人もそうした類の人か、マーケティングしてそうした本で小銭を稼いでいる。

1つの真理に属する物は去れ、正義とは信仰して降ってくるわけでもなく、1つのモノに盲信した生活をして手に入るものではない。真理とは全人類全てにある。ただ一つ言えるのは幻想に真理はない。文字は読める人がいるから理解できるのであり、国家は特定の領域にある共同体が合意したからある。憲法も金も生活に直結しない学問は全て幻想である。人生の土台である衣食住こそが全てでありこれをおろそかにする者は幻想としかいいようがないだろう。

特に本末転倒なのが、子育てをするのは目的達成するのに邪魔だからと切り捨てる人やそうしたことが、悪徳という社会である。創造性や芸術、知的には子供が必要だ。情欲というもの母性本能、父性本能こうしたものがなければ社会はどんどん衰退していくのは当たり前だし、皆倒錯した社会になっていくのはわかるだろう。動物やアニメの萌えが流行ったりするのは、現実にそうした対象がいないから当然の流れである。

左翼はこうしたことを見ると怒ると思う。日本を殺すことは私の目指すところではない。持てる者と持たざる者の解消が私の目指すところである。左翼が取り組んでいるのは、正社員化とかだったりするし、革命と言いつつ全然革命してないので反対する。憲法を守る気がある人も、壊す人も、軍隊強化する気もある人を支援し愛する。

そもそも、最早改革が怖くて声をあげたくないという人やヘイトスピーチという手段でしか政治の不満を言えない人もいるのに差別するのは左翼の人は間違えている。弱虫を救う人が弱虫をたたいて、中途半端な慈善化気取りの人から人気を取るという手法は嫌われても仕方がない。こうした社会背景には、信じてきた幻想の崩壊によるものが多く、テロとの戦いがイスラム圏からだけではなくアメリカ国内のことからも出たように不満が日本でもたまっているのです。自殺という形でしかまだ出ていないですが、殺人事件、テロこうしたものが出たらどう対処するのかが不思議である。

他人に同情する物は、優越感を得たいという気と見下したいという気持ち、という承認欲求の表れなのだそしてそれを知ったものはあなた方に騙された悲しみを負い、二度と信じることはない。国家を食いつぶす人を育てたのは全員であって個々の人ではないが、これの責任は大きい。国に関しての防衛策は考えるが国に何ができるかを誰も考えなくなる。左翼政治家とかそんなチャチナもんではない。一つの狂気が日本を終わらせてしまうのだよソ連ベルリンの壁のように

首ができない人を置いておくことでこいつらも生まれた。社会は誰かが不利益を被るシステムである。そうして何もできなかったと嘆いているうちに時が立ちそれぞれの復讐心のみが出てきている。

福祉を充実させられないのは終わっているとしか言いようかせない。正社員という貴族を愛して他を差別する。こうしたやり方では破綻するのは当たり前である。

正社員という立場になるために、正社員を多く確保できる職業、安くて大量の雇用が確保できるところに就職して沢山働き、強者による強者のシステムができてしまった。こうしたことは社会不安を利用したやり方だし、奨学金貧困ビジネスの延長戦でもあった。個人の才能があまりいらないどころか潰そうとする社会システムを左翼が容認したのだ。共同体うんぬん以前にこうした共同体は悪しき共同体であり、社会主義、一か国に統制された社会の方がましになるものである。

社長が見たら怒るかも

学生は起業しろというが、起業に失敗している人は誰も愛していないし、花束を贈った人はこの中にいるのだろうか?起業家ブームに沸いた2000年で起業した人はたくさんいたが、失敗した人も多かった。そうした人は仲間外れにあい借金の苦労というよりもプライドや引きこもりになったという。無責任に企業を勧めるのはいいが、その後をフォローしないと優秀だからカルトやセミナーを開いたりする可能性もあるし、反社会的組織ともつながる可能性も〇ではない。より良い世の中を作るっていうのは失敗した人にも、アフターケアすることでもある。

そして、世界のためということとか言っているが、押しつけとも取れる傲慢だから成功したのかもしれないがこれは他人にとっては迷惑そのものである。今の時代売るのは最早誰が必要とするになっている。

宗教もだ

お前らのありがたい話はいい、金、使えることをよこせ

心の平安とかそんなのは、精神科医でたりているのです。

宗教がなせあるのか?道徳でもなければ、文化や民俗学でもない。葬式や結婚式などのビジネスとしてだけである。これを研究する人はどうぞ探求してくれ寄付金や本の出版で集めるがよいそれだけで宗教という物は充分である。

宗教には、理念がない。生活に密着しようという理念が



日本は亡国になった、自由よりも、保証を求め、人は働けど働けども奴隷になったままの人生を送った人生を歩む。知識やスキルをどんなに身に付けても無駄です。奴隷なので所詮は鎖の自慢をするかのように東芝や官僚という肩書自慢や年収自慢しかすることがない。そうして病院の個室のベットで静かに見守れながら死ぬことを望み、日々宴会で酒を飲み、たばこを吸い、ラーメンを食べながら、健康になる食品が出たらそれを買い求めてすぐに忘れる。そうした社会で活躍するのは教養や研究してきた人ではなく、その場のノリやギャグというスキル、もしくは我慢するというスキルを身に付けている人であり創造性や改善とか欲しがっていても、実はこれを維持したいがため必要とされないのです。賢い人ほど知っていても知らないふりをするのは叩かれるのが怖いのと処罰されるのが怖いからである。本音で語っても処罰されたというケースは馬鹿程歴史にある。